飛騨御坊御遠忌750

高山教区・高山別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要厳修 ありがとうございました。御遠忌の様子をまとめたひだご坊御遠忌特別号はこちらからご覧いただけます。

「高山教区・高山別院 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ」

雑行を棄てて本願に帰す ―このままでいいのか、今の世・この私―

 2011年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌をお迎えするにあたり、真宗大谷派では、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマが打ち出されています。 このテーマの「いのち」とは、人類の歴史を貫いて誰の底にも流れている深い願い、「私は何のために生まれてきたのか」「どこに向かって生きているのか」といった、私の根源から湧き出てくる「問い」なのでしょう。 飛騨の地に生きる私たちは、この「いのち」というテーマを、さらに親鸞聖人自身の言葉にたずねることにしました。 それは、親鸞聖人が二十九歳のときに、師・法然上人に出遇った感動をはっきりと表した言葉、「雑行を棄てて本願に帰す」であります。

 思えば私たち人類の歴史は、より豊かな暮らし、より正しい社会、そしてより進歩した文明を求めての限りない歩みでありました。しかしその歩みは、往々にして逆に一人ひとりの人間を追い詰め、時に殺戮してしまうものではなかったでしょうか。 現代の日本においても、老いも若きも、誰もが不平と不満をいだきながら、いつもいらいらし、不安にさいなまれています。ついには、「人として生まれた意義と生きる喜び」を見出せないまま、九年連続しての三万人を超える自死者と、毎日のように報道される他殺者とを生み出しつづけています。 こうした現代日本を生きる私たちに、親鸞聖人は、私たちが「正しい」と信じて行ってきたことの、その全てが「雑行」ではないかと教えられます。そして、「雑行」と知らせるはたらきが「如来の本願」なのです。人類の歴史の上にたえず繰り返されてきた、止むことのない闘争・戦争・差別・いじめ・・・、それらは決して私と無関係ではなく、この私のあり方が生み出すのです。この自覚を私たちにうながすはたらきが本願であり、その呼びかけに気づくことが本願との出遇いなのでしょう。

 「雑行を棄てて本願に帰す」という親鸞聖人の決断は、決して自分が思い描いた理想を実現したというような、到達点を表す言葉ではありません。如来の本願から問われ続け、新しく歩みを踏み出す転換点の言葉です。同時に、今の世を生きる私たちに、「雑行を棄てて本願に帰せよ」と願い続ける親鸞聖人の呼びかけであります。

 私たちは、如来から、そして親鸞聖人から、「そのままでいいのか」と問われ続けています。その問いかけの前に身を据え、「このままでいいのか、今の世・この私」という内から湧いてくる共なる問いを大切にして、聖人の御遠忌をお迎えしてまいりたいと思います。

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